親切にしたからといって、友達になれるわけじゃない|母から受け継いだ、人間関係の癖|共感と距離㉛

共感と距離の間

「共感と距離のあいだ」シリーズ 第31回

この記事は「共感と距離シリーズ」です。
人間関係の中で起きる共感と境界の問題について書いています。


「これ、読んでみたら?」から始まった

最近、職業訓練に通い始めた。

そこで知り合った人と、少しずつ話すようになった。

猫を飼っているという共通点もあったし、せっかく新しい土地で生活を始めたのだから、訓練所でも新しい人間関係ができたらいいなと思っていた。

あるとき、お金のことをあまり知らないという話をしていた人に、私は一冊の本を貸した。

「これ、読んでみたら?」

以前の私なら、たぶん何も考えずにそうしていた。

役に立ちそうなものがあれば渡す。
知らないことがあれば教える。
困っていれば手伝う。

そうやって人との距離を縮めてきたように思う。

ところが今回、少し違和感が残った。

本を貸したこと自体は、別に嫌ではない。
読んで「よかった」と言ってくれたこともうれしかった。

それなのに、なぜか私は、少しだけモヤモヤしていた。

「何が嫌だったんだろう」と考えてみた。

別に、お菓子が欲しかったわけではない。
何かお返しをしてほしかったわけでもない。

たぶん私は、

「私からボールを投げたら、相手からも何か返ってくる」

という感覚が欲しかったのだと思う。

私が欲しかったのは「お返し」ではなかった

人間関係には、キャッチボールのようなところがあると思う。

こちらが話したら、相手も話してくれる。

こちらが興味を持ったら、相手もこちらに興味を持ってくれる。

こちらから誘ったら、次は相手から声をかけてくれる。

こちらが何かしてあげたら、同じものが返ってこなくてもいい。

でも、何かしらの形で「あなたとの関係を私も大切にしています」という反応が返ってくる。

私が欲しかったのは、たぶんそういうものだった。

だから、問題は「何をもらったか」ではない。

関係が一方通行になっていないか。

そこだったのだと思う。

そして、そう考えているうちに、私は自分の別の癖にも気づいた。

私は、ずいぶん先回りしている。

私は、いつも先に差し出していた

思い返せば、私は人間関係の中で、いつも先に動いてきた。

恋人に対してもそうだった。

会社でもそうだった。

相手が困らないように先回りする。
相手が喜びそうなことを考える。
必要そうなものがあれば差し出す。
自分が少し我慢すれば済むなら、そのほうを選ぶ。

今回の訓練所でも、似たようなことをしていた。

誰かと仲良くなりたいと思うと、私は自然に「自分にできること」を探してしまう。

本を貸したり。
何かを教えたり。
物を譲ったり。
集まりを考えたり。

つい先日も、訓練所で使っていたヤスリを「これ使えるんですか?」と聞かれて、反射的に「じゃあ渡すね」と相手に渡していた。

家に帰ってから気づいた。

「あれ、私もそれ使いたかったんだった」

そこで初めて、

「ああ、私、またやってる」

と思った。

相手に頼まれたから仕方なくではない。

自分から、ほとんど反射的に差し出している。

そして、そのこと自体は嫌ではないのに、あとから少し寂しくなることがある。

これは、どういうことなんだろう。

母も、同じことをしていた

そこで思い出したのが、母だった。

母も、人に何かをしてあげるのが好きな人だった。

近所の人に手作りのリンゴケーキを配ったり、何か作れば「これ、持っていって」と人に渡したりする。

でも、そのあと母が落ち込むことがあった。

思ったような「ありがとう」が返ってこない。

期待していたほど喜んでもらえない。

お返しがない。

そんなとき、母はかなりへこんでいた。

子どもの頃の私は、それを何度も見てきた。

そのときは、それを単なる「母は人に尽くす人なんだ」と思っていた。

でも今になって考えると、私はその姿をずっと見てきたのだ。

人に何かをしてあげる。

相手に喜んでもらう。

そこから関係が深くなる。

そういう人間関係の作り方を、私は母から見せてもらっていたのかもしれない。

そして、いつの間にか、それが自分の中でも「普通」になっていた。

人に何かをしてあげることが、人との距離を縮める方法だと思っていた。

「親切」と「仲良くなる」は、別の話だった

でも、今回初めて、そこを分けて考えてみようと思った。

親切にすることと、仲良くなることは、別の話なのだ。

私はこれまで、無意識のうちに二つをつなげていたのかもしれない。

「これをしてあげる」
↓
「きっと喜んでくれる」
↓
「きっと私との距離も縮まる」

でも、相手が同じように考えているとは限らない。

相手にとっては、

「親切にしてもらった。ありがとう」

それで終わるかもしれない。

それは悪いことではない。

ただ、私がそこに「もっと仲良くなりたい」という意味まで乗せていたのなら、話は違ってくる。

相手が悪いわけでもない。

私が親切にしたことが間違いだったわけでもない。

ただ、

私が勝手に、親切の中に「関係が深まること」まで含めてしまっていた。

そう考えると、これまで感じてきた「なんで私ばっかり」という感情の一部も、少し違って見えてくる。

一歩出たら、次の一歩は相手に任せる

だから、これからは少しだけやり方を変えてみようと思う。

一歩目は、自分から出してもいい。

話しかける。
誘う。
何かを貸す。
親切にする。

それは、これまでの私と変わらない。

でも、その次の一歩まで私が出さない。

こちらが一度ボールを投げたら、相手が投げ返してくるのを待つ。

返ってこなければ、もう一度こちらから投げるのではなく、

「あ、この人との関係は、今はここまでなんだな」

と思ってみる。

それは冷たいことではないと思う。

相手にも、自分から関係を作る自由がある。

私が全部やらなくていい。

むしろ、全部私がやってしまったら、相手がどういう人なのか分からなくなる。

その人は自分から連絡をくれる人なのか。

誘ってくれる人なのか。

私の話にも興味を持ってくれる人なのか。

困ったときに何か返してくれる人なのか。

それを見るためには、私が少し手を止める必要がある。

「私が何をしてあげられるか」だけではなく、「この人は私との関係に、何を持ってきてくれる人なのか」も見ていい。

友達が欲しい。でも、誰でもいいわけじゃない

45歳になって、私は以前より「友達が欲しい」と思うようになった。

仕事を辞め、住む場所も変わった。

これまでの人間関係から少し離れて、新しい土地で生活を始めたからだ。

だから、訓練所で新しい人と出会うことも楽しい。

いろいろな人生を歩いてきた人の話を聞くのも面白い。

ただ、今回気づいた。

私は、誰とでも仲良くなりたいわけではない。

「友達がいないから、この人と仲良くしなきゃ」でもない。

自分から与え続けないと続かない関係なら、そこまで頑張らなくてもいい。

こちらが話せば相手も話してくれる。

こちらに興味を持ってくれる。

相手からも何かを持ってきてくれる。

そんなふうに、自然に行ったり来たりする関係のほうが、今の私は心地いい。

だからこれからは、

「この人と仲良くなるには、私は何をしてあげればいいだろう」

ではなく、

「この人と一緒にいると、私は自然にボールを投げ合えるだろうか」

と考えてみたい。

親切は、人間関係の前払いではない

親切にすること自体を、やめるつもりはない。

人に何かをしてあげることは、たぶんこれからも好きだと思う。

誰かが喜んでくれたら、やっぱりうれしい。

ただ、それを「人との関係を得るための方法」にはしない。

親切にしたから、仲良くなれるとは限らない。

こちらがたくさん与えたからといって、相手も同じだけ返してくれるとは限らない。

そして、それは相手が悪いということでもない。

ただ、相手と自分では、人との距離の縮め方が違うだけかもしれない。

母から受け継いだのかもしれない、この「先に与える」という癖。

それを今すぐ捨てる必要はないと思う。

でも、もう少しだけ、自分の手元に残しておいてもいい。

「これ、使う?」と聞かれたとき。

「じゃあ、あげる」と反射的に言う前に、一度考える。

私は本当に、これを手放したい?

誰かと仲良くなりたいと思ったときも、

私ばかりが関係を動かしていない?

と、一度立ち止まる。

45歳。

人間関係まで、全部自分で組み立てなくてもいいのかもしれない。

一歩はこちらから。

その次の一歩は、相手に任せる。

そして、返ってきたら、また一歩。

そんなふうに、これからの人間関係を作っていきたい。

親切は、人間関係の前払いではない。


▶「共感と距離のあいだ」シリーズ 全話一覧はこちら


もしこの記事が
「少し救われた」
「言えなかった気持ちを言葉にしてくれた」

そう感じていただけたら、
記事の最後から小さな応援を送っていただけると嬉しいです。

このブログを静かに続ける力になります。

※本記事の内容・概念の無断転載・再配布はご遠慮ください。
引用の際は、出典リンクの明記をお願いいたします。

コメント

Copied title and URL