「何でも話す人」と「何でも話せる人」は違う|共感と距離⑱

共感と距離の間

自己開示の量と、親密さは同じではない

「共感と距離のあいだ」シリーズ 第18回

この記事は「共感と距離シリーズ」です。
人間関係の中で起きる共感と境界の問題について書いています。


何でも話してくれる人に、最初は「心を開いてくれた」と思う

人と出会ったとき、相手が自分のことをたくさん話してくれることがある。

過去のこと。

家族のこと。

恋愛のこと。

仕事のこと。

自分の弱さや悩み。

かなり早い段階から、いろいろなことを話してくれる。

そんなとき、

「この人はオープンな人なんだな」

「私に心を開いてくれているんだな」

と思うこともある。

そして、人によっては、

「こんなことまで話してくれるなんて、信頼してくれているんだ」

と嬉しくなる。

それ自体は、間違いではない。

そういう人にとっては、自己開示の量が親密さのサインなのだと思う。


でも、「自分を開く」と「相手が心を開ける」は違う

ここには、少し不思議なズレがある。

自分が何でも話せる人だからといって、

相手も何でも話せるとは限らない。

自分は過去の恋愛について話せる。

だから相手にも聞いていい。

自分は家族のことを話せる。

だから相手も話したいだろう。

自分は弱さを見せられる。

だから相手も、同じように弱さを見せてくれるはず。

でも、実際にはそうとは限らない。

人によって、心を開くスピードも、話せる範囲も違う。


「何でも言える」と「何でも言わなくていい」は違う

私は最近、この違いがかなり大きいのだと気づいた。

人によっては、

「何でも言える関係」=信頼できる関係

なのだと思う。

でも私にとっては、

「何でも言わなくていい関係」=信頼できる関係

なのだと思う。

話したければ話す。

話したくなければ話さない。

答えたくなければ答えなくていい。

今は言葉にできなければ、黙っていてもいい。

その選択を、自分で決められる。

それが私にとっての安心だった。


「聞かない」というのも、コミュニケーションだ

会話というと、

「何を話すか」

ばかりが注目される。

でも、本当は、

「何を聞かないか」

も大切なのだと思う。

相手が少し言葉に詰まったら、そこで話題を変える。

答えにくそうなら、それ以上聞かない。

自分から話してくれるまで待つ。

そういうことも、相手への配慮なのだと思う。

「聞かない=興味がない」ではない。

むしろ、

「あなたが話すタイミングは、あなたが決めていい」

というメッセージにもなる。


境界線があるからこそ、近づける

一見すると、距離を置いているように見える。

でも、実際には逆なのかもしれない。

どこまで近づいていいのか分からない関係では、人は警戒する。

逆に、

「ここから先は踏み込まない」

という境界線があると、その内側では安心できる。

だから私は、

距離を縮めることと、境界線をなくすことは同じではない

と思う。

むしろ、

境界線が守られるからこそ、安心して距離を縮められる。


「裏表がない人」が、必ずしも安心できる人とは限らない

「思ったことは何でも言います」

「自分は裏表がないです」

「何でも話すタイプです」

そういう人を、好ましく感じる人もいる。

何を考えているか分からない人より、ずっと安心できる。

それも分かる。

でも、別の人にとっては、

「思ったことを何でも言われること」そのものが負担になる。

言葉は、一度相手に渡してしまえば、受け取った側が処理しなければならない。

どう返そう。

どう受け止めよう。

これはどういう意味だろう。

今、何を期待されているんだろう。

だから、話す側にとっては「ただ話しただけ」でも、受け取る側にはそれなりの負荷がある。


会話には「話す技術」だけではなく「止まる技術」がある

会話が上手な人というと、

話題が豊富な人。

面白い話ができる人。

質問が上手な人。

そんなイメージがある。

でも私は、それだけではないと思う。

話さない。

待つ。

引く。

相手の反応を見る。

そういう「止まる技術」も、同じくらい大切なのではないか。

むしろ、親密な関係になるほど、

「何を言ったか」より、

「ここで言わないでおこう」

という判断が、その人との安心感を作ることもある。


本当に信頼できる人は、信頼を急がせない

信頼というものは、不思議だ。

「私はあなたを信頼しています」

と言われても、自分がその人を信頼できるとは限らない。

逆に、

「信頼してください」

と言われなくても、

いつの間にか、

「この人なら大丈夫かもしれない」

と思っていることがある。

たぶん信頼は、言葉よりも小さな経験の積み重ねなのだ。

こちらが「嫌」と言ったときに止まってくれた。

話したくないことを聞かなかった。

答えを急かさなかった。

こちらのペースを尊重してくれた。

そういうことが積み重なって、少しずつ安心が生まれる。


「何でも話せる関係」が合う人もいる

もちろん、

「何でも話せる関係」が悪いわけではない。

何でも話せる。

何でも聞ける。

お互いの弱さも見せられる。

思ったことを率直に言える。

そんな関係が心地いい人もいる。

だから、

どちらが正しいという話ではない。

大切なのは、

「自分はどちらのタイプなのか」

を知っておくことなのだと思う。


私は「何でも話せる人」より「話さなくても安心できる人」がいい

私はたぶん、

「何でも話せる関係」を求めているわけではない。

むしろ、

何も話さなくても気まずくならない関係。

話したくなったら話せる関係。

話したくないときは、そのままでいられる関係。

そういうものを心地よいと感じる。

だから私にとって、

信頼とは、距離をなくすことではない。

自分で距離を決めても、その関係が壊れないと思えることだ。


親密さとは、境界線がなくなることではない

以前は、親しくなるということは、

「もっと自分を見せること」

なのだと思っていた。

でも今は少し違う。

親しくなっても、自分の領域は残っている。

相手にも相手の領域がある。

その境界線をお互いに尊重しながら、

「ここまでは入っていい」

「ここから先はまだ入らない」

と少しずつ距離を調整していく。

そのほうが、むしろ長く続く関係になるのかもしれない。


「何でも話す人」ではなく、「何でも話さなくていい人」

人との距離感について考えていると、

「どれだけ自分を開けるか」

ばかりを考えてしまう。

でも、本当に大切なのは、

「どれだけ安心して、自分の境界線を守れるか」

なのかもしれない。

何でも話せる。

何でも聞ける。

何でも分かり合える。

そんな関係だけが親密なのではない。

話さない。

聞かない。

待つ。

少し離れる。

それでも関係が壊れない。

そんな関係もある。

そして私にとっては、そちらのほうがずっと安心できる。

信頼できる人とは、何でも話してくれる人ではない。

何も話さない時間さえ、安心して一緒にいられる人なのかもしれない。


たくさん話しているのに、なぜか会話が深まらない。

そんな相手と話していると、何度も「え?」と思う瞬間がある。

でも、そのたびに言葉にするわけではない。

「まあ、いいか」

「ここで言っても面倒だな」

そうやって飲み込んでいく。

ところが、飲み込んだ「え?」は、その場では消えてくれない。

むしろ、帰宅してから何度も戻ってくる。

なぜ私たちは、違和感を感じても、その場では口に出さないのだろう。

そして、飲み込んだ違和感は、その後どうなるのだろう。

そんな「言わなかった違和感」について考えてみた。


▶「共感と距離のあいだ」シリーズ 全話一覧はこちら


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