「共感と距離のあいだ」シリーズ 第25回
この記事は「共感と距離シリーズ」です。
人間関係の中で起きる共感と境界の問題について書いています。
人と話していると、ときどき不思議な疲れ方をすることがある。
何か失礼なことを言われたわけでもない。
怒鳴られたわけでもない。
明らかに嫌な人というわけでもない。
それなのに、話しているうちに、
「なんだかずっと説明している気がする」
「自分の選択をいちいち評価されている気がする」
「どうして私は、この人に自分のことを納得してもらおうとしているんだろう」
と思う。
もしかすると、その疲れの正体は、性格の善悪ではなく、会話の中でどちらが「基準を決める側」にいるかなのかもしれない。
世の中には、自分の基準を提示し、相手を評価することで会話を進める人がいる。
一方で、
「私は私の基準で生きる」
という人もいる。
この二つのタイプは、どちらが正しいという話ではない。
ただ、一緒にいると摩擦が起こりやすい。
その理由を、七つに分けて考えてみたい。
「普通はこう」に対する距離感が違う
評価する側にいたい人は、
「普通はこうする」
「一般的にはこうだ」
「それは珍しい」
という基準を持ち出すことがある。
それ自体は悪いことではない。
世の中には確かに一般的な傾向がある。
でも、「私は私の基準で生きる」人にとっては、それが必ずしも行動を決める理由にはならない。
「みんながそうしている」と言われても、
「私はそうしたくない」
なら選ばない。
ここで、
「普通はこう」
を提示する人と、
「でも私はこうする」
という人がぶつかる。
問題は意見の違いではない。
相手の基準を、こちらにも適用しようとするところで疲れが生まれる。
相手の「違い」を、そのまま置いておけない
「私は私の基準で生きる」人にとって、
「あなたはそう考えるんだね」
で会話が終わっても構わない。
でも評価する側にいたい人は、ときどきその先まで行く。
「どうして?」
「なんでそうするの?」
「それって普通なの?」
「そこまでする必要ある?」
と理由を求める。
もちろん、純粋な興味から聞いている場合もある。
でも、質問をされた側には、
「自分の選択を説明して、納得してもらわなければならない」
という感覚が生まれることがある。
そして、質問が積み重なるほど、ただの会話だったものが「審査」のようになっていく。
「理解する」と「評価する」が混ざりやすい
人の話を聞くときには、
「この人はそう感じるんだ」
と理解することと、
「その考え方は正しいのか」
と評価することがある。
この二つは似ているようで違う。
たとえば、
「私は旅行が好きだから、せっかくなら長く滞在したい」
という話をされたとき、
「へえ、旅行好きなんだね」
と受け取ることもできる。
一方で、
「そんなに長くいる必要ある?」
「お金がかかるね」
と評価することもできる。
後者が続くと、話している側は疲れる。
なぜなら、自分の価値観を共有しているだけなのに、いつの間にか妥当性を判定されているからだ。
「自分の基準」が、会話の主導権になりやすい
評価する側にいたい人は、自分の基準を持っている。
「こうするのが普通」
「こういう人はこう」
「こういう場合はこう考える」
そうした基準を提示すること自体は、悪いことではない。
ただ、それが会話の中で繰り返されると、
「この人の基準に照らして、私はどうなのか」
という構図ができてしまう。
すると、会話が対等な交換ではなくなる。
片方が基準を提示し、もう片方が説明する。
片方が評価し、もう片方が評価される。
この関係が続けば、当然疲れる。
「私は私の基準で生きる人」は、説明して納得してもらう必要を感じない
ここが大きな違いかもしれない。
自分の基準で生きる人は、
「私はこうしたい」
ということに、必ずしも他人の承認を必要としない。
旅行に行く。
一人で行く。
三泊する。
海外に行く。
新しいことを始める。
どこに住む。
どんな仕事をする。
もちろん、他人の意見を聞くことはある。
でも最後には、
「私はどうしたいか」
で決める。
だから、
「なんで?」
と聞かれても、
「そうしたいから」
で終わることがある。
この感覚を持っている人にとって、相手から何度も理由を求められることは、単純に負荷になる。
「変えたい人」と「変える必要を感じない人」は、会話が消耗戦になる
評価する側にいたい人が、相手の選択について意見を述べる。
「こうした方がいい」
「普通はこうする」
「それはやめた方がいい」
「そんなにする必要はない」
一方、
「私はこれでいい」
という人がいる。
この二人が会話を続けると、どうなるだろう。
片方は相手を少し変えたい。
もう片方は、自分を変える必要を感じていない。
すると、
「説明する」→「反論される」→「さらに説明する」→「また評価される」
という循環が始まる。
これは、ものすごく疲れる。
しかも、どちらも悪人である必要はない。
単純に、会話の目的が違うのだ。
最終的に「一緒にいると世界が広がるか、狭くなるか」の違いになる
人と一緒にいることで、自分の世界が広がることがある。
「そんな考え方もあるんだ」
「その場所、面白そう」
「やってみたい」
「そんな生き方もあるんだね」
そうやって、お互いの世界を交換していく。
でも逆に、
「なんでそんなことするの?」
「普通はしないよ」
「そこまで必要ないよ」
「それは珍しいね」
という言葉が積み重なると、少しずつ自分の行動を考えるときに、
「これをしたら何か言われるかな」
という意識が生まれてくる。
それは、人間関係としてかなり大きな変化だと思う。
最初は小さな違和感だったものが、
「これをやめておこうかな」
「説明するの面倒だから言わないでおこう」
「また何か言われそうだから、やめておこう」
へと変わっていく。
そうなると、その人と一緒にいることで、世界が少しずつ狭くなっていく。
「正しいかどうか」より、「自分らしくいられるか」
もちろん、相手の意見が間違っているとは限らない。
むしろ、相手の方が正しいことだってある。
問題は、正しいか間違っているかだけではない。
人間関係では、
「その人と一緒にいるとき、自分がどんな状態になるか」
も大切なのだと思う。
何かをするたびに、
「それって普通?」
「なんで?」
「そんな必要ある?」
と評価される関係では、自分の感覚を守るために、いつも少し身構えることになる。
反対に、
「へえ、そうしたいんだ」
「面白いね」
「私はこうだけど、あなたはそうなんだね」
と受け止めてもらえる関係では、自分の世界をそのまま持っていられる。
「私は私の基準で生きる」は、わがままとは違う
自分の基準で生きるというと、
「人の意見を聞かない」
「頑固」
「協調性がない」
と思われることもある。
でも、本来はそういうことではない。
相手の意見を聞いたうえで、
「私はどうしたい?」
と自分に戻ってくること。
それが、自分の基準で生きるということなのだと思う。
だから、
「あなたはそう考えるんだね」
と相手の基準も認めながら、
「でも私はこうしたい」
と言うことはできる。
相手を否定しなくても、自分の人生を生きることはできる。
本当に相性がいい人は、「評価しない人」ではない
だからといって、何も意見を言わない人がいいわけでもない。
大切なのは、
「自分の基準を持っているか」ではなく、「相手にも相手の基準があると認められるか」
なのだと思う。
自分は旅行は一泊で十分。
相手は三泊したい。
自分は国内旅行が好き。
相手は海外旅行が好き。
自分は早く答えを出したい。
相手はもう少し考えたい。
それぞれ違っていていい。
違いを見つけたときに、
「どちらが正しい?」
ではなく、
「そういう違いがあるんだね」
と置いておける。
その余白がある人とは、かなり楽に付き合える。
「私を変えようとしない人」といると、人生は広がる
私は、人間関係で大切なのは、必ずしも価値観が一致することではないと思う。
むしろ、
価値観が違っても、お互いの基準を尊重できること。
その方が長く一緒にいられることもある。
「私はこうしたい」
「あなたはそうなんだね」
その間に、少しの余白がある。
そこに、
「でも普通は」
「なんで?」
「それはおかしい」
を毎回入れなくてもいい。
人は、自分の世界を否定されない場所で、自然に成長できる。
そして、自分の世界を広げてくれる人とは、
「こうしなさい」
と言われるのではなく、
「そんな世界もあるんだ」と思わせてもらえる。
私は、そんな関係の方が心地いい。
「自分が評価する側」でいなくても、人間関係は成立する
誰かと話すとき、
自分が正しい側にいなくてもいい。
自分が物事を知っている側でなくてもいい。
相手の選択を評価しなくてもいい。
「へえ、そうなんだ」
と聞くだけでもいい。
そして、
「私はこう思う」
と伝えるだけでもいい。
相手を自分の基準に合わせなくても、関係は続けられる。
むしろ、その方が相手も自分らしくいられる。
最後に
「自分が評価する側にいたい人」と、
「私は私の基準で生きる」
という人。
この二人は、どちらが悪いわけでもない。
ただ、前者が自分の基準を相手にも適用しようとし、後者がそれを受け入れないとき、摩擦が起こる。
そして、その摩擦は大きな喧嘩として現れるとは限らない。
「なんで?」
「普通は」
「そんなに?」
「それって必要?」
そんな小さな言葉として現れる。
一つ一つは些細なことでも、積み重なると、
「この人といると、私はいちいち自分を説明しなければならない」
という感覚になる。
そのとき、自分に問いかけてみてもいいのだと思う。
「私は、この人に理解してもらいたいのか。
それとも、この人に納得してもらわなければならないと思っているのか。」
この二つは、似ているようで全く違う。
そして私は、
「自分の世界を守りながら、一緒にいられる人」
の方が、ずっと長く付き合える人なのだと思う。
自分の意見を否定されると、相手を説得し続ける人がいる。
それは本当に「考えている」のだろうか。
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「少し救われた」
「言えなかった気持ちを言葉にしてくれた」
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