子どもが欲しかった45歳、死んだら誰が弔う?|壊れた祖父の墓を見て考えたこと|人生を組み替える|スピンオフ③

人生を組み替える

「人生を組み替える」シリーズ


「普通」を見直してみると、自分がこれまで選ばなかったものの中にも、少しずつ違う意味が見えてくる。

仕事。
結婚。
住む場所。
お金。

そして、家族。

私はこれまで、自分が子どもを持たなかったことについて、深く考えないようにしていたのかもしれない。

子どもは欲しかった。

でも、妊娠や出産は、少し怖かった。

そして、それ以上に怖かったのが、子どもを一人で育てることだった。

だから私は、子どもだけが欲しかったわけではない。

夫が欲しかった。

子どもの父親になってくれる人が欲しかった。

一緒に家族をつくっていける人がいて、それなら怖くても、やってみたいと思っていた。

でも、そういう人には出会えなかった。

そんなことを、最近になって、また少し考えるようになった。

きっかけは、親族の葬儀だった。


壊れた、祖父の墓

父方の家の墓は、私が暮らしてきた場所とは離れたところにある。

以前、地震があったときに墓石の一番上が落ち、その衝撃で周囲の石にもひびが入った。

今は応急的に補修されているけれど、きちんと直すには数十万円ほどかかるらしい。

その墓を買ったのは、私の祖父だった。

今から何十年も前。

まだバブルになる前の、いわゆる「墓ブーム」の頃だった。

当時は、家を持ち、家族をつくり、先祖代々の墓を持つ。

そんな人生が、今よりずっと「普通」だったのだと思う。

祖父は、これから先も家族が続いていくことを前提に、その墓を買ったのだろう。

もちろん、そんな未来をいちいち言葉にして考えていたわけではないと思う。

ただ、家族が続いていく。

子どもが生まれ、その子どもにも子どもが生まれる。

そうやって墓を守っていく。

そんな未来を、それほど特別なことだとは思わずに思い描いていたのかもしれない。


伯父は、その墓を直そうとしている

今回、葬儀をきっかけに親族と話す中で、伯父がその墓をかなり大切にしていることを知った。

壊れたままにはしておけない。

ちゃんと直したい。

その強い気持ちが伝わってきた。

私はこれまで、墓を見ても、

「死んだ後まで、お墓が必要なのかな」

くらいに思っていた。

自分だったら、自然葬でもいい。

お墓なんてなくてもいい。

死んだ後まで誰かに管理の負担をかけるくらいなら、自然に還るほうがいい。

そんなふうに考えていた。

でも、伯父が墓を直そうとしている姿を見ていると、墓というのは単なる石ではないのだと思えてきた。

そこには、

「この家族がここまで続いてきた」

というものが残っている。

墓を守るということは、石を守ることではなく、自分たちがどこから来たのかを守ることなのかもしれない。


でも、その先には誰がいるんだろう

伯父の家系には、子どもがいる。

その子どもにも子どもがいて、さらにその先にも続いている。

ただ、その人たちは今、遠く離れた場所で暮らしている。

お墓からはかなり遠い。

それでも、家族のどこかには「次の世代」がいる。

一方で、私の代では、そこが途切れる。

私には、子どもはいない。

だから、この墓を見ながらふと思った。

祖父が買ったときには、おそらく「これから続いていく家族」のためだった墓を、私は「ここで終わっていく家族」の側から見ている。

同じ墓なのに、立っている場所が違う。

それが、なんだか不思議だった。


私は、子どもが欲しくなかったわけではない

ここは、自分でも最近になって少し整理できてきたところだ。

私は、子どもが欲しくなかったわけではない。

妊娠することも、出産することも怖かった。

でも、それ以上に怖かったのは、その先だった。

もし一人になったら。

もし夫がいなかったら。

もし何かあって、自分一人で子どもを育てることになったら。

それが怖かった。

だから、子どもを持つことを考えるとき、私の中にはいつも「子ども」の隣に「夫」がいた。

子どもの父親になる人。

家族を一緒につくってくれる人。

その人がいれば、怖くてもやってみたかったのだと思う。

でも、私はそういう人に出会えなかった。

結果として、子どももいない。

家族も増えなかった。


「子どもがいる人だったら、ラッキーなのにな」

婚活をしていた頃、ふと思ったことがある。

もし、これから夫になる人に、すでに子どもがいたら。

それはそれで、ラッキーなのかもしれないな、と。

自分が妊娠や出産をすることを考えなくても、その人にはすでに子どもがいる。

その子と仲良くなれたらいい。

家族になれたらいい。

そんなことを、ぼんやり考えたことがある。

もちろん、実際にはそんなに簡単な話ではない。

子どもがいる人と一緒になるということは、その子との関係も、その人の過去も含めて、一緒に生きていくということだから。

でも、私の中に「子どもを持つことへの気持ち」が完全になくなっていたわけではなかった。

形が違ってもいい。

自分が産まなくてもいい。

それでも、家族が増えることには、どこか惹かれていたのだと思う。


うにが人間の子どもだったら、と思ったこともある

そして、最近はもう一つ思う。

うにが猫ではなく、人間の子どもだったらな、と。

もちろん、うには猫だからかわいい。

猫だからこそ、今のうにがいる。

でも、うにと暮らしていると、

「この子が人間の子どもだったら、もっといろんなところに一緒に行けるのにな」

と思うことがある。

温泉にも一緒に行ける。

旅行にも行ける。

山にも行ける。

一緒にご飯を食べて、

一緒に景色を見て、

「今日の温泉よかったね」

なんて話もできる。

今のうには、私の隣で寝て、私の髪の毛で遊んで、ゴロゴロ言っている。

それだけでも十分かわいい。

でも、ときどき、

「人間だったらなあ」

と思ってしまう。

考えてみれば、ゼペットじいさんも、ピノキオを見て、そんな気持ちだったのかもしれない。

自分で作った人形なのに、息子のように思ってしまう。

「この子が本当の人間だったら」

という気持ち。

そう考えると、なんだか少し分かる気がする。


家族を増やすことは、面倒で、でも「繁栄」だったのかもしれない

私は最近になって、少し変なことを考えるようになった。

家を大きくする。

家族を増やす。

子どもを育てる。

家族が増えれば、当然、面倒なことも増える。

お金もかかる。

自由も減る。

責任も増える。

自分一人なら、好きなところへ行って、好きなように暮らせる。

その意味では、家族を増やすことは、個人にとってはかなり煩わしいことでもある。

なのに、人間は長い間、それを繰り返してきた。

家をつくり、子どもを育て、その子どもがまた家族をつくる。

家族が増える。

世代が続く。

そうやって、人間の生活は大きくなってきた。

それは単純に「幸せだから」というだけではなく、ある意味では人間がずっとやってきた「繁栄」なのかもしれない。

そして45歳になった私は、その流れから少し外れている。

家を大きくするのではなく、小さくする。

家族を増やすのではなく、一人で暮らす。

最近、そのことを、

「私は逆行しているんだな」

と思うことがある。


「私は死んだら誰が弔うんだろう」

そんなことを考えるようになったのは、今回の葬儀があったからだ。

人が亡くなる。

親族が集まる。

葬儀をする。

そして、墓の話をする。

その一連の流れを見ていたら、急に自分のことが気になった。

私は死んだら、誰が葬儀をしてくれるんだろう。

誰が火葬の手続きをしてくれるんだろう。

誰が私の遺骨を受け取るんだろう。

そして、その遺骨はどこへ行くんだろう。

これまで「死んだ後のことなんて、そのとき考えればいい」と思っていた。

でも、45歳になってみると、少し違って見える。

「そのとき」が来たときには、自分では何もできない。


自然葬でいいと思っていた。でも……

以前は、死んだら自然葬でいいと思っていた。

できれば、友人の誰かに遺骨を託して、

「適当なところで自然に還してくれたらいいよ」

くらいに考えていた。

墓もいらない。

立派な葬儀もいらない。

死んだ後まで誰かに負担をかけたくない。

そう思っていた。

ところが、今回、祖父の墓を見て、伯父がそれを大切にしている姿を見た。

すると、少しだけ迷うようになった。

墓には、残された人の側の気持ちもある。

亡くなった人がどうしたいかだけではなく、

「そこに行きたい」

と思う人がいるかもしれない。

そう考えると、自分の死後についても、単純に「何も残さなくていい」とは言い切れなくなった。

そして、もう一つ気になった。

私は、誰に頼めばいいんだろう。

「私が死んだら、これをお願いね」

と頼めるほど近い友人は、今の私にはいるだろうか。

旅行に行く友人。

温泉に行く友人。

ご飯を食べる友人。

それと、

「私が死んだ後のことをお願いできる人」

は、少し違う。

それを考えたとき、

私はまだ、そういう人を持っていないのかもしれない。

と思った。


でも、まだ45歳なんだよな

ここまで考えてきて、最後に一つ思った。

いや、私、まだ45歳なんだよな。

もちろん、20代でも30代でもない。

「これから何でもできる」と言うには、少し歳を重ねている。

でも、「もう何も変わらない」と諦めるほどの年齢でもない。

実際、私はつい最近まで婚活アプリをやっていた。

そして、忙しくなって、いったんやめた。

でも、もしまた気が向いて、さくっと再開したら。

1か月後には、彼氏ができている可能性だってある。

……まあ、そんなにうまくいくかは知らないけれど。笑

人生なんて、案外そういうものなのかもしれない。

今回、祖父の墓を見て、

「私はこの先、一人で死んでいくのかな」

なんてことまで考えた。

でも、その未来だってまだ決まっていない。

もしかしたら、これから誰かと出会って、一緒に暮らすかもしれない。

もしかしたら、その人にはすでに子どもがいるかもしれない。

あるいは、思いがけず自分の家族が増えることだってあるかもしれない。

そう考えると、

「私は家族をつくらなかった人生を歩んできた」

と過去形で言い切るのも、まだ少し早い気がする。

ただ、子どもが欲しかったこと。

一人で育てるのが怖かったこと。

夫や、子どもの父親になってくれる人が欲しかったこと。

そして、そういう人に出会えないまま45歳になったこと。

それは、今の私の人生の一部として確かにある。

祖父が買った墓を見て、私は初めて、

「家族が続いていく」ということを、自分の人生の外側から眺めた。

そして、そこに少し寂しさを感じた。

でも同時に、

「まだ分からないじゃん」

とも思っている。

45歳。

諦めるには、まだ少し早い。

だから、とりあえず今は、

うにを撫でながら、

「お前が人間だったら、一緒に温泉行けたのにな」

なんて思いつつ、

もう少しだけ、この先の人生を面白がってみようと思う。


古いUSBを開いたら、若い頃の私と、5年間付き合った男が写っていた。
その写真を見ながら、私は「45歳で独身」という現在を少し考えた。


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仕事、暮らし、学び方――40代、これからの人生を自分で選び直していく。


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