「共感と距離のあいだ」シリーズ 第27回
この記事は「共感と距離シリーズ」です。
人間関係の中で起きる共感と境界の問題について書いています。
- 話しているのに、相手を理解したいと思えなくなる
- 「考えている」と「自分の考えを検証している」は違う
- 自分の経験が、いつの間にか「世の中の話」になる
- 反証を出すと、考えが変わるのではなく説明が増えていく
- 「自分の考えを検証する」のではなく、「自分の考えを維持するために考える」
- 本人は楽しそうなのに、こちらだけが疲れていく
- 「矛盾している」より、「矛盾を整理する必要を感じていない」ことが気になる
- 私は途中から、反論することをやめていた
- 「理解できない人」ではなく、「理解する気がなくなる人」
- 私が会話で求めているのは、「正しさ」より「考えが動くこと」
- 思考が丁寧な人は、「分からない」を残しておける
- 「この人を理解したい」と思えるかどうか
- 理解する努力をやめた自分を、責めなくていい
話しているのに、相手を理解したいと思えなくなる
人と話していると、
「この人はどういうことを考えているんだろう」
と興味が湧くことがある。
自分とは違う意見でも、その背景を知りたくなる。
ところが、たまに逆の人がいる。
よくしゃべる。
持論もある。
経験談も豊富だ。
なのに、話せば話すほど、
「もう、この人のことを理解しなくてもいいかな」
と思ってしまう。
相手が何を考えているのか分からないからではない。
理解しようとすること自体に、だんだん興味がなくなっていく。
「考えている」と「自分の考えを検証している」は違う
たくさん話す人は、一見するとよく考えているように見える。
次々に意見が出てくる。
例も出てくる。
経験も出てくる。
でも、
言葉がたくさん出てくることと、思考が深いことは同じではない。
考えるということには、
「本当にそうなのか」
「反対のケースはないか」
「自分の経験を一般化していないか」
と、自分の考えを一度外側から眺める作業も含まれている。
その作業が少ないと、話はどんどん展開するのに、考えそのものはあまり動かない。
自分の経験が、いつの間にか「世の中の話」になる
「私はこう感じた」
という話なら、それはその人の経験だ。
ところが、
「だから東京の人はこうだ」
「関西の人はこうだ」
「この土地の人はこうだ」
と話が広がっていく。
個人的な経験から、いつの間にか大きな一般論になっている。
その途中に、
「自分の周囲だけかもしれない」
という留保がない。
こういう話を聞いていると、こちらは内容そのものよりも、
「その結論に至るまでに、何を省略したんだろう」
と気になってしまう。
反証を出すと、考えが変わるのではなく説明が増えていく
このタイプの人との会話で一番疲れるのは、ここかもしれない。
こちらが、
「でも、こういう場合もありますよね」
と反対の例を出す。
すると、
「いや、それはそうなんだけど……」
と、また別の説明が始まる。
さらに反証を出すと、また新しい説明が出てくる。
そのうち、最初の考えを検証していたはずなのに、持論を維持するための新しい材料が次々と追加されていく。
そうなると、こちらも気づく。
「これ、話しても考えが更新されるわけじゃないな」
と。
「自分の考えを検証する」のではなく、「自分の考えを維持するために考える」
同じ「考える」でも、方向が違うことがある。
一つは、
自分の考えが正しいか確かめるために考えること。
もう一つは、
自分の考えを正しいままにしておくために考えること。
後者では、反証は考えを修正する材料ではなくなる。
むしろ、
「それでも自分が正しい理由」
を探す材料になる。
本人からすると、たくさん考えている。
でも外から見ると、
考えが深くなったというより、説明が増えている。
この違いは、会話をしていると意外とはっきり感じる。
本人は楽しそうなのに、こちらだけが疲れていく
不思議なのは、こういう会話をしている本人は楽しそうなことだ。
次から次へと話題が出てくる。
持論を話す。
自分の経験を話す。
こちらが相槌を打てば、さらに話が続く。
本人にとっては、おそらく楽しい会話なのだろう。
でも、こちらは頭の中で、
「今の話と前の話はどうつながるんだろう」
「それは本当にそうなのかな」
「また別の持論が始まりそうだな」
と処理している。
すると、会話の負荷が一方的にこちらへ寄ってくる。
「矛盾している」より、「矛盾を整理する必要を感じていない」ことが気になる
人の話には、誰にでも多少の矛盾がある。
それ自体は問題ではない。
むしろ、
「さっきと言っていること違うね」
と指摘されたときに、
「あ、本当だ」
と言える人なら、そこから会話が始まる。
気になるのは、矛盾があることではなく、
自分の発言同士を照合する必要を、本人があまり感じていないように見えること。
だから、聞いている側だけが、
「この二つはどう両立するんだろう」
と考えることになる。
私は途中から、反論することをやめていた
そういう会話では、反証を出すこともできる。
でも、途中から私はやめていた。
なぜなら、
「これを指摘したら、また持論の説明が始まりそうだな」
と感じたからだ。
別に相手を言い負かしたいわけではない。
ただ、会話として成立するなら話してみたい。
でも、相手の考えがこちらの言葉によって動く可能性が低いなら、反証を出すことに意味を感じなくなってくる。
だから、
「そうなんですね」
「へえ」
「そういう考え方もありますね」
と返す。
同意しているわけではない。
会話にこれ以上のエネルギーを使わないことにしただけだ。
「理解できない人」ではなく、「理解する気がなくなる人」
ここが、この話で一番大事なところかもしれない。
私は最初、
「この人の頭の中が分からない」
と思った。
でも、少し考えてみると違った。
分からないから嫌になったのではない。
理解しようとすること自体をやめたくなったのだ。
これは、かなり大きな違いだと思う。
理解できない人でも、理解したい人はいる。
「なぜこの人はそう考えるんだろう」
と興味が湧くからだ。
でも、会話を重ねるほど、
「もう、この人の考えを解読するために頭を使いたくない」
となる人もいる。
私が会話で求めているのは、「正しさ」より「考えが動くこと」
私は、相手にいつも正しいことを言ってほしいわけではない。
私と同じ意見であってほしいわけでもない。
むしろ、
「そういう見方もあるのか」
と思える人のほうが面白い。
ただ、そのためには相手の側にも、
自分の考えを少し動かす余白
が必要だと思う。
「確かに」
「それは考えたことなかった」
「そう言われると、ちょっと違うかもしれない」
そういう一言があるだけで、会話はずいぶん違う。
思考が丁寧な人は、「分からない」を残しておける
何でも説明できる人が、必ずしも思考が丁寧なわけではない。
むしろ、
「それは分からない」
「自分の場合はそうだっただけかもしれない」
「そこまでは言い切れない」
と言える人に、私は安心する。
すぐに結論を出さない。
自分の経験を一般論にしない。
反対の可能性を残しておく。
そして、相手の言葉によって少しだけ考えを変えられる。
その余白が、対話を可能にする。
「この人を理解したい」と思えるかどうか
人間関係では、
「相手を理解できるか」
ばかりを考えがちだ。
でも、もう一つ大事なのは、
「私は、この人を理解したいと思えているか」
なのかもしれない。
話していて興味が湧く人がいる。
考え方が違っても、もっと聞きたくなる人がいる。
一方で、話せば話すほど、
「もういいかな」
と思ってしまう人もいる。
その違いは、相手が正しいか間違っているかではない。
こちらが対話を続けたいと思える構造になっているかどうか。
そこに、相性が表れるのだと思う。
理解する努力をやめた自分を、責めなくていい
誰とでも深く話せる必要はない。
すべての人の思考を解読する必要もない。
「この人とは、ここまででいい」
と思うことも、人間関係の一つの判断だと思う。
相手を否定する必要もない。
論破する必要もない。
ただ、
「私はこの人との会話に、これ以上思考のエネルギーを使いたくない」
と気づく。
それだけでも十分な情報だ。
「理解できなかった」のではなく、
「理解したいと思える会話ではなかった」。
そういう違いもあるのだと思う。
「安心して」と言われた。
でも、私は安心できなかった。
その違いは、言葉ではなく関係の中にあるのかもしれない。
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