誰かの世話をすることが、愛だと思っていた|猫と暮らし始めて気づいたこと|人生を組み替える|スピンオフ②

人生を組み替える

「人生を組み替える」シリーズ|スピンオフ #02|40代、自由をどう使うのか



ずっと、犬を飼いたかった。

以前、実家で飼っていたクリーム色のチワワとまたもう一度暮らしてみたかった。

でも、以前暮らしていた街では、ペットと暮らせる部屋を探すのは簡単ではなかった。

条件を下げれば、古くて暮らしにくい。

条件を上げれば、家賃が大きく跳ね上がる。

私にはペットを飼えないほどお金がなかったわけではない。

ただ、ペットのために住居費を大きく上げて、
毎月の生活コストそのものを引き上げることには、あまり気が進まなかった。

「家賃はこのくらいまで」と、自分の中で決めていたからだ。

だから、犬を飼うことは長い間、「いつかできたらいいな」という願いのままだった。

今思えば、その頃の私は、別の形で「一緒に暮らす存在」を手に入れていたのかもしれない。

「なんであんな人、飼っちゃったの?」

以前、友達に言われたことがある。

「なんであんな人、飼っちゃったの?」

そのときは笑った。

でも、今になって考えてみると、妙に的を射ていた。

私は長い人間関係の中で、相手の生活を支え、関係を維持するために、自分の時間やお金や気力をかなり使っていた。

相手がどうだったのか、という話ではない。

むしろ今振り返って気になるのは、

なぜ私は、そこまでして関係を続けようとしていたのだろう。

ということだ。

私は「世話をすること」と「愛すること」を混同していた

当時の私は、それを愛情だと思っていた。

好きだから、相手に合わせる。

好きだから、困っていたら助ける。

好きだから、関係が壊れないように努力する。

相手の機嫌を気にする。

嫌われないようにする。

離れていかないようにする。

そうやっているうちに、「自分がどれだけ負担しているか」を考えなくなっていた。

今なら、少し違う見方ができる。

私はもしかすると、

誰かに愛されることより、誰かの世話をすることで、自分の居場所を作っていたのではないか。

そんな気がする。

「私がいないと困る」

という状態は、当時の私にとって、ある意味では安心だったのだと思う。

必要とされているから、ここにいていい。

役に立っているから、離れていかれない。

そんなふうに、関係の中で自分の存在を確かめていたのかもしれない。

「必要とされること」は、愛されることとは違った

でも、今になって思う。

必要とされることと、大切にされることは、同じではない。

自分が何かをしてあげなければ成り立たない関係は、一見すると深いつながりに見える。

でも、それは「対等」とは少し違う。

相手のために頑張る。

相手のために我慢する。

相手のために自分の気持ちを後回しにする。

それが積み重なると、いつの間にか、

「これだけしているのだから、この関係には意味があるはず」

という感覚にもなっていく。

けれど、本当に安心できる関係なら、そんなに頑張り続けなくてもいいはずだ。

自分が世話をし続けなくても、相手はそこにいる。

自分が機嫌を取らなくても、関係は壊れない。

「役に立つ自分」でいなくても、一緒にいられる。

私は、そういう関係を知らなかったのかもしれない。

本当は、ずっとペットが欲しかった

そう考えると、私は昔からずっと「ペットが欲しかった」のだと思う。

犬と暮らしたかった。

一緒に家にいて。

ご飯をあげて。

世話をして。

眠っている姿を眺めて。

帰ってきたら、その存在が家にいる。

そういう暮らしに憧れていた。

でも、住む場所やお金の懸念があって、実現できなかった。

だから私は、いつの間にか人間関係の中で、「世話をする側」にいることを受け入れていたのかもしれない。

もちろん、人間と動物はまったく違う。

恋人とペットを同じものとして考えているわけでもない。

ただ、

「私が世話をすることで、その存在が私のそばにいてくれる」

という関係を、私はどこかで心地よいと思っていたのだと思う。

そして、私は本当にペットを飼った

それから時間が経って、私はようやく、本当にペットを飼うことができた。

保護猫のうにを迎えた。

ずっと欲しかった「一緒に暮らす存在」が、今は家にいる。

ご飯を食べさせる。

トイレを掃除する。

体調を気にする。

遊ぶ。

寝ているところを眺める。

そして、何をしていても可愛い。

キーボードの上に乗ってきて、ブログを書く邪魔をすることさえある。

でも、それすら可愛い。

そこで、ふと思った。

あれ。私、これでよかったんじゃない?

「人間じゃなくて、猫でもよかった」

もちろん、猫と恋人は違う。

猫とは人生について話し合えない。

一緒に旅行に行くことだって、人間のようにはできない。

それでも、私が長い間求めていたものの一部は、うにがかなり満たしてくれている。

家に帰れば、いる。

朝になれば、いる。

同じ空間で暮らしている。

私が世話をして、その見返りに何かをしてもらう必要もない。

「これだけしてあげたんだから、私を好きでいて」

という取引でもない。

ただ、一緒に暮らしている。

それだけでいい。

そこで私は初めて、

「ああ、私は人間じゃなくて、猫でもよかったんだ」

と思った。

うにが外を好きな猫だったらいい

最近、うには窓の外をよく見ている。

鳥が飛んでいると目で追う。

外で何か音がすると、そちらを見る。

だから私は、

「もしかして、外に興味があるのかな」

と思っている。

一度、ハーネスをつけて外に出してみた。

すると、うには固まった。

まったく動かない。

「これは無理なのか?」

と思った。

でも、ハーネスをつけたこと自体が初めてだった。

外が嫌いなのか。

ハーネスが嫌なのか。

それとも、単純に怖かっただけなのか。

まだ分からない。

猫には、外が好きな子もいれば、家の中が一番好きな子もいる。

だから、無理に散歩できる猫にしようとは思っていない。

ただ、もしうに自身が外に興味を持って、いつかハーネスにも慣れてくれたら。

一緒に少し遠くまで行けたらいいな、と思う。

「一緒に旅行する人」が欲しいのは、恋人でなくてもいい

そして最近、そんなことを考えていたら、婚活についても少し考え方が変わってきた。

私は本当に「恋人」が欲しいのだろうか。

もちろん、素敵な人と付き合えたら楽しいと思う。

一緒に旅行したり。

温泉に行ったり。

山に登ったり。

くだらないことで笑ったり。

そんな相手がいたら、人生はもっと面白くなるかもしれない。

でも、その相手が必ずしも恋人である必要はないのかもしれない。

友達でもいい。

旅行仲間でもいい。

一緒に何かを楽しめる人でもいい。

そして、もしかしたら、うにと一緒に出かけられるようになったら、それだけでも私はかなり満たされるのかもしれない。

「一人じゃない」ということと、「恋人がいる」ということは、同じではない。

40代になって、少しずつそれが分かってきた。

「必要だから付き合う」から、「いたら楽しい人と付き合う」へ

昔の私は、誰かと付き合うことに、もっと必死だった。

関係を壊さないようにする。

相手に合わせる。

自分が我慢する。

そして、相手が離れていかないように努力する。

でも今は、少し違う。

私の生活には、もう仕事だけがあるわけではない。

これから学びたいこともある。

旅行もしたい。

そして、うにがいる。

だから、恋人がいないからといって、人生が欠けているわけではない。

もし誰かと付き合うなら、

「いないと困る人」ではなく、「一緒にいたら、今の人生がもっと面白くなる人」

がいい。

私が誰かを養って、機嫌を取って、関係を維持するのではなく。

お互いに自分の生活を持ったまま、一緒にいる。

そのほうが、ずっといい。

私が欲しかったのは、「世話をする相手」ではなかった

今になって思う。

私は、誰かを飼いたかったわけではなかった。

たぶん、

「一緒に暮らせる存在」が欲しかった。

そして、そのために自分が犠牲にならなければならないとは、もう思わない。

人間でもいい。

猫でもいい。

友達でもいい。

一緒に旅行する人でもいい。

大切なのは、私が一方的に世話をして、その存在をつなぎ止めることではない。

自分の人生をちゃんと持ったまま、誰かと一緒にいられること。

40代になって、ようやく私は、

「誰かに必要とされなければならない」

というところから、少し降りられた気がする。

そして今日も、うには私の金髪を狙っている。

たぶん私は、これくらいでちょうどいい。



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仕事、暮らし、学び方――40代、これからの人生を自分で選び直していく。


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