いい人なのに、一緒にいるとひどく疲れる人|共感と距離⑳

共感と距離の間

「共感と距離のあいだ」シリーズ 第20回

この記事は「共感と距離シリーズ」です。
人間関係の中で起きる共感と境界の問題について書いています。


世の中には、分かりやすく嫌な人がいる。

失礼なことを言う。
人を見下す。
怒鳴る。
約束を破る。

そういう人なら、

「この人とは距離を置こう」

と判断しやすい。

でも、もっと難しい人もいる。

悪い人ではない。

むしろ、客観的に見れば「いい人」と言ってもいい。

仕事も真面目。
人付き合いも悪くない。
困っている人がいれば助ける。
本人にも悪意はない。

それなのに、

一緒にいると、ものすごく疲れる。

私は最近、そういう人がいることを改めて実感した。


「嫌い」ではないのに、会いたくない

こういう人を説明するのは難しい。

「何が嫌なの?」

と聞かれても、答えに困る。

別に意地悪をされたわけではない。
暴言を吐かれたわけでもない。
明確な嫌がらせをされたわけでもない。

だから、

「いい人だったじゃない」

と言われるかもしれない。

たしかに、そうなのだと思う。

いい人なのだと思う。

でも、

「じゃあ、また会いたい?」

と聞かれると、

「……うーん」

となる。

そして、よく考えると、

会いたくないというより、会うと疲れるのだ。


会話をしているだけなのに、脳が疲れていく

最近気づいたのは、私は相手と話している間、かなり頭を使っていたということだ。

「この言い方なら大丈夫かな」

「これを言ったら、どう返ってくるだろう」

「ここは反論されそうだな」

「この話題を続けたら、また長くなりそうだな」

そんなことを考えながら話していた。

普通の会話なら、そこまで考えない。

思ったことを話す。
相手が話す。
それに答える。

それだけでいい。

でも、相手によっては違う。

一言返すたびに、相手の反応を予測してしまう。

すると、会話を楽しむことより、

「どう返せば揉めないか」

を考えることに意識が向いてしまう。


話題が次々に飛んでいく

そして、もう一つ疲れることがあった。

話題がものすごい勢いで飛んでいくこと。

一つの話をしていると思ったら、突然別の話になる。

そこからまた別の話につながる。

さらに、最初の話とはほとんど関係のない話題に移る。

例えば、

旅行の話をしていたと思ったら、仕事の話になる。

仕事の話から家族の話になり、

家族の話から社会問題の話になり、

そこからまた別の人の話になり、

いつの間にか最初の話題がどこかへ消えている。

話している本人にとっては、頭の中では全部つながっているのだと思う。

だから、本人にとっては自然な会話なのだろう。

でも、聞いている側は違う。

こちらは、その都度「今、何の話をしているんだっけ?」と文脈を追い直さなければならない。


「話題が豊富」と「話が飛ぶ」は少し違う

もちろん、話題が豊富なこと自体は悪くない。

いろいろなことを知っている人との会話は楽しい。

次々に面白い話が出てくる人もいる。

でも、

一つの話題を掘り下げる前に、次の話題へ移ってしまう

ことが続くと、私はかなり疲れる。

なぜなら、こちらの中ではまだ前の話を処理しているからだ。

「それってどういう意味なんだろう」

「私はそこについてこう思う」

と考えているうちに、

「そういえば……」

と次の話題に移ってしまう。

すると、

考えかけていたものを毎回置いていかなければならない。

それが積み重なると、頭の中に未処理の会話がどんどん溜まっていくような感覚になる。


私が疲れていたのは「会話量」だけではなかった

だから、会ったあとに疲れた理由を考えてみると、

単純に「よくしゃべる人だったから」だけではなかったのだと思う。

話題が飛ぶ。

相手の反応を予測する。

言葉を選ぶ。

誤解されないように説明する。

反論されないように表現を変える。

次々と出てくる情報を処理する。

そうやって、私はずっと頭を動かしていた。

つまり、

会話をしているというより、会話を処理していた。

だから疲れたのだと思う。


「この人、すぐ揉めそう」と感じると、人は自然に身構える

そして、さらに厄介なのが、

「この人に何か言ったら、話がややこしくなりそう」

という感覚だ。

もちろん、実際に毎回揉めるわけではない。

でも、過去の会話から、

「ここに反論してきそう」

「この言葉を説明し始めそう」

「こちらの発言を別の意味に受け取りそう」

という予測ができてしまう。

そうすると、自然に言葉を慎重に選ぶようになる。

「これは言わないほうがいいかな」

「こっちの表現にしておこう」

「この話題は避けよう」

と、自分の発言を一つずつチェックする。


自分の発言を監視しながら話す

これが、かなり疲れる。

安心できる人といるときは、

多少言葉が変でもいい。

話が飛んでもいい。

「あ、今の違った」

と言ってもいい。

黙ってもいい。

考えてから答えてもいい。

つまり、

自分を監視しなくていい。

でも、相手の反応を常に予測していると、

「今の言い方、大丈夫だったかな」

という小さな確認がずっと続く。

会話の裏側で、

もう一人の自分がずっと自分の発言をチェックしている。

それは、思っている以上に脳のリソースを使う。


相手に悪気がないからこそ、距離を取りにくい

もし相手が明らかに嫌な人なら、簡単だ。

「あの人は嫌な人だった」

で終わる。

でも、

「悪い人じゃないんだけど、私は疲れる」

となると、自分のほうが悪いような気がしてくる。

「私が神経質なのかな」

「私のコミュニケーション能力が低いのかな」

「もっと相手に合わせるべきなのかな」

と考えてしまう。

でも、必ずしもそうではない。

いい人と、相性がいい人は違う。

これは、かなり大切なことだと思う。


「いい人」だから、付き合わなければいけないわけではない

相手がいい人でも、

一緒にいると疲れる。

会話のたびに神経を使う。

自分の発言を慎重に選んでしまう。

帰宅するとぐったりする。

そういうことが続くなら、

「私には合わない」

というだけで十分なのだと思う。

相手に悪意があることを証明する必要はない。

相手を悪者にする必要もない。

ただ、

「私はこの人といると疲れる」

という自分の感覚を、そのまま認めればいい。


「脳のリソースを奪われる」という感覚

人と会ったあとに疲れる理由は、単純な会話量だけではない。

むしろ、

どれだけ自分の脳を使ったか

なのかもしれない。

話を聞く。

内容を理解する。

話題の飛躍についていく。

相手の意図を読む。

次の反応を予測する。

言葉を選ぶ。

誤解されないように補足する。

それを何時間も続けていたら、疲れて当然だ。

だから、

「たくさん話したから疲れた」

とは限らない。

「ずっと考えながら話していたから疲れた」

ということもある。


安心できる人は、脳を休ませてくれる

逆に、安心できる人といるときは、頭の中の監視役がいなくなる。

「これ言っていいかな」

と考えなくても話せる。

話題が途中で止まってもいい。

意見が違っても、

「へえ、そうなんだ」

で終わる。

沈黙しても気まずくない。

相手の反応を予測しなくても大丈夫。

だから、会話をしたのに疲れない。

むしろ、

「なんか楽しかったな」

と思って帰ることができる。


「悪気がない」は、相性の保証にはならない

もちろん、相手に悪気がないことは大切だ。

でも、

悪気がないことと、一緒にいて安心できることは別だ。

相手は普通に話しているだけかもしれない。

相手は親切に説明しているだけかもしれない。

相手は真剣にコミュニケーションしているだけかもしれない。

それでも、自分がずっと緊張しているなら、

「私には合わない」

と感じてもいい。

相手の人格を否定する必要はない。


「この人はいい人。でも、私はこの人といると疲れる」

最近は、こういう判断があってもいいと思うようになった。

「この人は悪い人ではない。」

そして同時に、

「でも、私はこの人といると疲れる。」

この二つは両立する。

人間関係は、

「いい人」か「悪い人」か。

「好き」か「嫌い」か。

そんな二択だけではない。

その間に、

「いい人だけど、私とは合わない」

という、とても広い領域がある。


距離を置く理由は、相性でもいい

誰かと距離を置くとき、

「相手が悪かった」

という理由が必要だと思っていた時期があった。

でも、そんな必要はないのかもしれない。

「一緒にいると疲れる」

「自分を監視してしまう」

「会話にすごくエネルギーを使う」

「話題についていくだけで頭が疲れる」

「一緒にいても神経が休まらない」

それだけでも、十分な理由になる。

誰かを悪者にしなくても、

自分の居心地を優先していい。


「疲れる」は、十分な情報なのかもしれない

もちろん、一度会っただけで結論を出す必要はない。

たまたま疲れていただけかもしれない。

相手も緊張していたのかもしれない。

自分のコンディションが悪かっただけかもしれない。

だから、一度の疲労感だけで判断する必要はない。

でも、

何度会っても同じように疲れるなら。

そのときは、

「なぜこの人は私を疲れさせるのか」

と相手を分析し続けるより、

「私は、この人とは距離が近くならないほうが楽なのかもしれない」

と考えてもいい。


人を悪者にしなくても、離れていい

私は、これから人との距離を考えるとき、

「この人はいい人か?」

だけではなく、

「この人といる私は、どんな状態になっているか?」

も見ていきたい。

自分を監視している?

言葉を慎重に選び続けている?

相手の反応を予測している?

話題の飛躍についていくことに必死になっている?

何か揉めそうな気がして、常に身構えている?

それとも、

何も考えずに笑えている?

沈黙していても安心できる?

意見が違っても大丈夫だと思える?

もし前者なら、

その人が悪い人でなくても、少し距離を取っていい。

人間関係に必要なのは、相手の悪意を証明することではない。

自分が安心していられる距離を知ることなのだと思う。

そして、

「いい人なのに、なぜか疲れる」

という感覚もまた、

自分と相手との距離を測るための、大切な情報なのだと思う。


よくしゃべる人が、必ずしも会話が深いわけではない。
では、自分のことをたくさん話してくれる人はどうだろう。
「ここまで話してくれた=心を開いてくれた」と、私たちはつい考えてしまう。
でも、自己開示の多さと親密さは、本当に同じなのだろうか。


▶「共感と距離のあいだ」シリーズ 全話一覧はこちら


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