自己開示が多い人=親密になるのが上手い人、ではない|共感と距離㉑

共感と距離の間

「共感と距離のあいだ」シリーズ 第21回

この記事は「共感と距離シリーズ」です。
人間関係の中で起きる共感と境界の問題について書いています。


人との距離が縮まるとき、私たちは「自分のことを話してくれた」という事実を、親密さのサインとして受け取りやすい。

家族のこと。

過去のこと。

仕事のこと。

恋愛のこと。

失敗したこと。

弱かった時期のこと。

ときには、人にはあまり話さないようなことまで。

そんな話を早い段階で聞かされると、

「この人は心を開いてくれているんだ」

と思う。

そして、

「私にも心を開いてくれているんだから、きっと距離が縮まっている」

と感じる。

でも、今回ある人と会話をしていて、私はふと疑問に思った。

自己開示が多いことと、親密になるのが上手いことは、本当に同じなのだろうか。


自分のことをたくさん話すことは、「親密さ」ではない

自己開示そのものは、もちろん人間関係において重要だ。

自分のことを話さなければ、相手は自分を知ることができない。

相手のことを知るためにも、お互いに経験や考えを話す必要がある。

だから、

自己開示は親密さをつくる材料の一つ

ではある。

でも、材料と完成品は違う。

たとえば、

「私はこういう仕事をしてきた」
「昔こんなことがあった」
「家族はこういう人たちだ」
「実はこんな経験もある」

と、次々に自分のことを話す。

それだけなら、相手はたしかに「その人について多くの情報」を得られる。

でも、

その人について詳しくなったことと、その人と親密になったことは同じではない。

ここに、意外と大きな違いがある。


親密さには「相互性」がある

私が今回、特に気になったのはここだった。

こちらが話す。

すると、

「そうなんですね」
「いいですね」
「大変ですよね」

と返ってくる。

でも、そのあとすぐに、

「自分はこうで……」

と相手の話に戻っていく。

会話は成立している。

沈黙もない。

むしろ、ものすごくたくさん話している。

だから、その場だけ見れば、

「会話が弾んでいる」

ようにも見える。

でも、帰宅してから考えると、

「私のこと、ほとんど聞かれていないな」

と気づく。

ここで初めて、

会話の量と相互理解は別物

だと分かる。


「自分を知ってほしい」と「相手を知りたい」は違う

これはかなり重要な違いだと思う。

自己開示には、大きく分けて二つの方向がある。

一つは、

「私はこんな人間です。あなたに知ってほしい」

という方向。

もう一つは、

「私はこういう人間です。だから、あなたのことも知りたい」

という方向。

どちらも自己開示には違いない。

でも、後者には相手への関心がある。

自分の話をしたあと、

「あなたはどう?」
「あなたはどう感じた?」
「それって大変じゃなかった?」
「もう少し聞いてもいい?」

と相手にボールを返す。

この「返す」がある。


親密さは「情報量」ではなく「往復」で生まれる

私は、親密さというものを少し違うものとして考えるようになった。

自分の情報を100個渡したから、100だけ親密になれるわけではない。

むしろ、

自分が話す

相手が話す

それを受け取る

少し質問する

また自分を話す

相手に返す

という往復運動の中で、少しずつ親密になっていく。

だから、ものすごく自己開示する人なのに、

「この人とは、なぜか距離が縮まらない」

ということがある。

それは不思議なことではないのかもしれない。

情報交換は多いのに、相互理解が少ない。

そんな会話も存在する。


「弱いところまで話してくれた」は、必ずしも信頼とは限らない

さらに難しいのがここだ。

相手が自分の弱さを話してくれたとき、私たちは、

「こんなことまで話してくれるなんて、私を信頼してくれているんだ」

と思いやすい。

確かに、そういう場合もある。

でも、自己開示の深さだけで信頼関係を判断するのは危険だと思う。

なぜなら、

深い話をすることと、相手の境界線を尊重することは別の能力だから。

自分の過去を話せても、

相手が話したくないことを待てないかもしれない。

自分の弱さをさらけ出せても、

相手の気持ちを深く聞けないかもしれない。

自分について正直でも、

相手のペースを尊重できないかもしれない。

つまり、

自己開示の深さと、対人関係の成熟度は別のもの

なのだと思う。


親密さには「話す力」だけではなく「受け取る力」が必要

ここまで考えると、親密な関係に必要なのは、話す能力だけではない。

むしろ、

聞く力。

待つ力。

質問する力。

相手の感情を受け取る力。

相手が話したくないときに待てる力。

自分の話をしたあと、相手に戻ってくる力。

こうしたものが必要になる。

私は以前、

「よくしゃべる人」と「会話が深い人」は違う

と書いた。

今回、その違いがもう少しはっきりした。

よく話す人は、自己開示が上手なのかもしれない。

でも、

親密になるのが上手な人は、自己開示と同時に、相手への関心も持っている。


「話してくれたから、距離が近づいた」と思わなくてもいい

これは恋愛や婚活でも、かなり大事なことだと思う。

初対面なのに、相手が自分のことをたくさん話してくれる。

家族のこと。

元恋人のこと。

仕事のこと。

過去の失敗。

弱かった時期。

将来の夢。

そんな話をたくさん聞いた。

すると、

「かなり心を開いてくれたな」

と思う。

でも、そのあとに一度立ち止まってみる。

「では、この人は私のことをどれくらい知ろうとしてくれたんだろう?」

と。

自分がどれだけ話してくれたかではなく、

相手がどれだけ自分に関心を向けてくれたか。

そこを見る。


親密さは「自分を見せること」だけでは完成しない

自分を見せることは大切だ。

でも、親密さは一人では作れない。

自分を見せる。

相手を見る。

相手が自分を見せる。

それを受け取る。

また自分に戻る。

その繰り返しによって、

「私はこの人を知っている」
「この人も私を知ろうとしてくれている」

という感覚が生まれていく。

だから私は今、

自己開示の多さより、その後に何が起きるかを見るようになった。

自分の話をしたあと、こちらに戻ってくるのか。

質問してくれるのか。

こちらの感情を拾ってくれるのか。

こちらが話しているとき、ちゃんとそこに居てくれるのか。

そして何より、

「この人は、自分を知ってほしいだけなのか。それとも、私を知りたいのか」

と考える。

その違いは、最初はとても小さく見える。

でも、何度か会話を重ねると、かなり大きな違いになって現れてくる。


自分のことをたくさん話す人が、必ずしも相手を知りたい人とは限らない。
では、なぜそこまで「自分を見てほしい」と思う人がいるのだろう。

「髪型を変えた」「これを買った」「こんなことをした」――。
自分では分かっているはずのことまで、誰かに伝えて反応を求める。

そこには、単なる承認欲求とは少し違う、「他者の反応を鏡にして自分を確認する」という心理があるのかもしれない。


▶「共感と距離のあいだ」シリーズ 全話一覧はこちら


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