「共感と距離のあいだ」シリーズ 第28回
この記事は「共感と距離シリーズ」です。
人間関係の中で起きる共感と境界の問題について書いています。
- 「安心して」と言われても、安心できないことがある
- 安心は、言葉だけで作れるものではない
- 「安心させようとする人」と「安心できる人」は違う
- 本当に安心できる人は、こちらの「NO」を急いで消そうとしない
- 「緊張しなくていい」と言われるほど、緊張することもある
- 安心できる人は「境界線」を尊重する
- 「信頼して」と言われるより、時間をかけて信頼できるほうが安心する
- 言葉より「一貫性」が安心をつくる
- 身体の「なんとなく嫌」は、無視しなくていい
- 安心できる人は、こちらを「安心させ続ける必要」がない
- 「安心させる言葉」は、時に自分の感覚を疑わせることもある
- 心は「説得されるもの」ではなく「経験するもの」
- 「安心させてくれる人」より「安心しなくてもいい人」
- 安心とは、「相手に安心させてもらうこと」ではないのかもしれない
「安心して」と言われても、安心できないことがある
「大丈夫ですよ」
「そんなに緊張しなくていいですよ」
「何も気にしなくていいです」
「僕は裏表がないので」
「信頼してもらって大丈夫です」
そんな言葉をかけられると、一見すると安心できそうに思う。
けれど、不思議なことに、
言われれば言われるほど、なぜか緊張する人がいる。
言葉としては優しい。
内容にも問題はない。
相手も、自分を安心させようとしているのだろう。
それなのに、身体のどこかが警戒している。
私は、それはおかしなことではないと思うようになった。
なぜなら、
「安心させる言葉」と「安心できる人」は、同じではないからだ。
安心は、言葉だけで作れるものではない
「安心してください」と言われて安心できるなら、こんなに簡単なことはない。
でも実際には、安心感は言葉だけでは決まらない。
相手の話し方。
距離の詰め方。
こちらの反応への対応。
断ったときの態度。
沈黙したときの空気。
こちらが興味を示さなかったときの反応。
そういうものを、私たちは意識しないところでも受け取っている。
だから、
「この人は安心していいと言っている」
という情報と、
「私はこの人といると安心する」
という感覚は別物なのだと思う。
「安心させようとする人」と「安心できる人」は違う
もちろん、安心させようとしてくれること自体は悪いことではない。
初対面なら、
「緊張しなくて大丈夫ですよ」
と言ってくれる人は親切だ。
ただ、それだけではその人が本当に安心できる人かどうかは分からない。
安心できる人は、むしろ、
安心させようと頑張らなくても、こちらが自然に安心できることがある。
大げさな言葉を使わない。
「僕はいい人だから」と説明しない。
「信頼して」と要求しない。
ただ、こちらのペースを尊重する。
それだけで、
「この人なら大丈夫かもしれない」
と感じる。
本当に安心できる人は、こちらの「NO」を急いで消そうとしない
安心できるかどうかを見るうえで、私は「YES」のときより、「NO」のときの相手の反応のほうが重要なのではないかと思う。
こちらが、
「今日は会いたくない」
と言った。
「そこまでは話したくない」
と言った。
「それは自分で考えてほしい」
と言った。
そこで相手が、
「分かった」
と受け止める。
それなら、こちらは次もNOを言える。
でも、
「なんで?」
「嫌われた?」
「そんなこと言わなくてもいいじゃん」
「僕はこんなにあなたを大事にしているのに」
と相手が反応するなら、次からこちらは警戒する。
そして、
「この人には、どこまで本音を出して大丈夫なんだろう」
と考え始める。
その瞬間から、安心は失われていく。
「緊張しなくていい」と言われるほど、緊張することもある
少し皮肉なことがある。
相手が、
「緊張しなくていいよ」
と繰り返す。
でも、自分は緊張している。
すると、
「私のほうがおかしいのかな?」
と思ってしまう。
相手は「安心していい」と言っている。
なのに自分は安心できない。
すると、
「この人は悪い人ではなさそうなのに、なぜ私はこんなに警戒しているんだろう」
と、自分の感覚を疑い始める。
でも、ここで大切なのは、
相手が悪い人かどうかと、自分が安心できるかどうかは別問題
だということだ。
相手に悪意がなくても、距離の詰め方やコミュニケーションの癖が自分には合わないことはある。
安心できる人は「境界線」を尊重する
安心できる関係には、境界線がある。
近づいてもいい。
でも、離れてもいい。
話してもいい。
でも、話したくないことは話さなくてもいい。
会ってもいい。
でも、今日は会わなくてもいい。
返信してもいい。
でも、すぐに返信しなくてもいい。
そういう、
「してもいい」と「しなくてもいい」が両方存在する空間
には、余白がある。
そして、その余白が安心につながる。
「信頼して」と言われるより、時間をかけて信頼できるほうが安心する
信頼は、言葉で要求するものではない。
少しずつ積み重なるものだと思う。
約束を守る。
言っていることと行動が一致している。
こちらの嫌がることを繰り返さない。
こちらのペースを尊重する。
断っても態度を変えない。
そういう小さな経験が積み重なって、
「この人は大丈夫」
になっていく。
だから、
「僕を信頼して」
と言われたから信頼するのではなく、
「この人と関わってきた結果、自然と信頼できるようになった」
というほうが、ずっと強い。
言葉より「一貫性」が安心をつくる
人が安心するのは、相手の言葉だけではない。
むしろ、
言葉と行動が一致しているか
が重要なのだと思う。
「急がせない」と言いながら急かす。
「友達でいよう」と言いながら恋愛的な距離を急速に詰める。
「あなたの自由を尊重する」と言いながら返事を催促する。
そういう矛盾が続くと、言葉より行動のほうを信じるようになる。
そして身体は、
「この人の言葉をそのまま信じていいのだろうか」
と警戒する。
安心とは、優しい言葉の量ではなく、
言葉と行動の整合性から生まれるもの
なのかもしれない。
身体の「なんとなく嫌」は、無視しなくていい
頭では、
「この人、別に悪い人じゃない」
と思っている。
でも身体は、
「なんか嫌だ」
と言っている。
一緒にいると疲れる。
会話が終わるとぐったりする。
なぜか気を遣う。
沈黙が怖い。
断ることを考えるだけで緊張する。
相手の機嫌を予測してしまう。
こういう感覚を、
「私の考えすぎかな」
と全部打ち消す必要はないと思う。
それは相手が危険人物だという証拠ではない。
ただ、
「この関係の中で、私は安心できていない」
という情報ではある。
安心できる人は、こちらを「安心させ続ける必要」がない
本当に安心できる人といると、
「安心しなきゃ」
と努力する必要がない。
相手の言葉を一つひとつ分析しなくてもいい。
相手の機嫌を読み続けなくてもいい。
次に何を言えば相手が喜ぶか考えなくてもいい。
沈黙してもいい。
興味のない話に無理に反応しなくてもいい。
そして、
「今日は帰りたい」
と言える。
それでも関係が壊れないと思える。
この、
「自分を守るための監視をしなくていい」
という感覚こそ、安心のかなり重要な部分なのかもしれない。
「安心させる言葉」は、時に自分の感覚を疑わせることもある
これは少し注意が必要なところだ。
「安心して」
「大丈夫」
「僕は信頼できる人間だから」
という言葉自体が悪いわけではない。
でも、それが何度も繰り返されると、
「あなたは安心していいはずだ」
というメッセージにもなり得る。
そこで自分が不安を感じると、
「不安を感じている私がおかしいのかな」
と、自分の感覚を疑ってしまう。
だから、
「安心していいと言われたか」ではなく、「実際に安心できたか」
を見てもいい。
心は「説得されるもの」ではなく「経験するもの」
私は、安心について考えるとき、
「安心してください」
という言葉より、
「この人といると、私は自分のままでいられる」
という感覚のほうを信じたい。
無理に明るくしなくてもいい。
面白いことを言わなくてもいい。
相手を喜ばせなくてもいい。
すぐに答えなくてもいい。
NOと言ってもいい。
そういうことを何度も経験して、
「ああ、この人の前では大丈夫なんだ」
と身体が覚えていく。
それが、信頼なのかもしれない。
「安心させてくれる人」より「安心しなくてもいい人」
そして最後に、少し言葉をひっくり返してみたい。
私たちは、
「私を安心させてくれる人」
を探しがちだ。
でも本当に必要なのは、
「私が安心しようと頑張らなくてもいい人」
なのかもしれない。
「大丈夫」と何度も言われなくても大丈夫。
「信頼して」と言われなくても、時間とともに信頼できる。
「緊張しなくていい」と言われなくても、気づいたら緊張していない。
そして、
「この人にどう思われるか」を四六時中考えなくていい。
そんな関係なら、神経は静かでいられる。
安心とは、「相手に安心させてもらうこと」ではないのかもしれない
結局、安心できる関係とは、
「あなたが私を安心させてくれる関係」
ではなく、
「私は私のままでいても、この関係は大丈夫だと思える関係」
なのかもしれない。
相手の言葉が優しいことも大切。
でも、それ以上に、
こちらが距離を取ったとき。
NOと言ったとき。
期待通りに反応しなかったとき。
一人になりたいと言ったとき。
そのときにも相手がこちらの境界線を尊重できるか。
そこに、本当の安心が表れる。
「安心して」と言う人を見るより、こちらが安心できるかを自分の感覚で確かめる。
そのほうが、自分の境界線を守るうえでは大切なのだと思う。
「友達になりましょう」と言われた。
でも、その人にとっての「友達」と、私にとっての「友達」は同じだったのだろうか。
人との距離は、同じ言葉を使っていても同じとは限らない。
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「少し救われた」
「言えなかった気持ちを言葉にしてくれた」
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