「共感と距離のあいだ」シリーズ 第24回
この記事は「共感と距離シリーズ」です。
人間関係の中で起きる共感と境界の問題について書いています。
- 大人になっても「見てほしい」はなくならない
- 「見てほしい」と「見てもらわないと困る」は違う
- 成熟とは「承認がいらなくなること」ではない
- 「自分がどう思うか」を自分の中に持てるようになる
- 他者の反応を「評価」ではなく「情報」として受け取る
- 「誰に見てもらいたいのか」を選べる
- 「みんなに見てほしい」から「分かる人に分かってもらえればいい」へ
- 「一人でも大丈夫」と「誰も必要ない」は違う
- 「私を見て」から「あなたも見たい」へ
- 成熟とは「自分を小さくすること」ではない
- 相手の反応まで自分の責任にしない
- 「見てほしい」と言えることと、「見てもらえなくても大丈夫」は両立する
- 大人になるとは、自分を映す鏡を一つにしないこと
- 「私を見て」から「私は私を知っている」へ
大人になっても「見てほしい」はなくならない
大人になったからといって、
「これ見て」
「こんなことしたんだよ」
「髪型変えたの、分かる?」
と言わなくなるわけではない。
嬉しいことがあれば誰かに話したい。
新しい服を買えば見てほしい。
何かを頑張ったら、気づいてほしい。
好きな人には、自分のことを知ってほしい。
そういう気持ちは、大人になっても自然に残っている。
だから、
「人に見てほしい」と思うこと自体が未熟なのではない。
むしろ、人間関係をつくるうえで、ごく自然な欲求でもある。
では、何が違ってくるのだろう。
「見てほしい」と「見てもらわないと困る」は違う
私は、この二つはかなり違うと思うようになった。
「これ、見て。面白いよ」
なら、相手が、
「へえ」
くらいの反応でも、
「まあ、そうだよね」
と流せる。
でも、
「髪型変えたんだけど」
と言って、
相手が気づかなかった。
あまり褒めてくれなかった。
期待した反応をしてくれなかった。
そのことで、
「私に興味がない」
「大切にされていない」
「無視された」
と強く傷つくなら、話は少し違ってくる。
重要なのは、
他者から反応が得られなかったとき、自分の中に戻ってこられるかどうか。
なのかもしれない。
成熟とは「承認がいらなくなること」ではない
「自立した大人」というと、
「人から認められなくても平気」
というイメージがある。
でも、そんな人はほとんどいない。
人から褒められれば嬉しい。
好きな人から「好き」と言われれば安心する。
仕事を評価されれば嬉しい。
自分の変化に気づいてもらえれば、やっぱり嬉しい。
だから、成熟とは、
他者からの承認を必要としなくなることではない。
むしろ、
「承認されると嬉しい。でも、承認されなかったからといって、自分の価値まで否定されたとは考えない」
というところに近いのではないだろうか。
「自分がどう思うか」を自分の中に持てるようになる
たとえば、新しい服を買った。
誰かに、
「似合ってる」
と言ってもらえれば嬉しい。
でも、その言葉がなくても、
「私はこの服が好き」
と思える。
髪型を変えた。
誰にも気づかれなかった。
それでも、
「自分では気に入っている」
と思える。
何かを始めた。
誰にも褒められなかった。
それでも、
「私はこれをやってみたかった」
と思える。
こういう、
「他人の評価」と「自分の評価」を分ける力
は、年齢だけでなく、経験や自己理解の積み重ねによって育っていくものなのだと思う。
他者の反応を「評価」ではなく「情報」として受け取る
成熟すると、他人からの反応そのものがなくなるわけではない。
むしろ、他人の反応を受け取る。
ただ、その意味づけが変わってくる。
たとえば、自分の話に相手があまり反応しなかった。
そこで、
「私はつまらない人間なんだ」
と考えるのではなく、
「この人は今、この話題にはあまり興味がないのかもしれない」
と考える。
返事が遅い。
「嫌われた」
ではなく、
「忙しいのかもしれない」
と考える。
褒められなかった。
「価値がない」
ではなく、
「この人にはそこまで重要なことではなかったんだろう」
と考える。
つまり、
他者の反応を、自分の価値を決める判定ではなく、一つの情報として扱える。
この違いは大きい。
「誰に見てもらいたいのか」を選べる
そしてもう一つ、成熟とともに変わっていくものがある。
それは、
誰からの反応を重要視するか。
だと思う。
若い頃は、
みんなに認められたい。
という気持ちが強いことがある。
友達。
職場。
世間。
SNS。
知らない人からの評価。
でも経験を重ねると、
「別に、この人たち全員に分かってもらわなくてもいい」
と思えるようになることがある。
そして、
「自分が大切にしている人に分かってもらえればいい」
という方向に変わっていく。
これは、単に人間関係を狭めることとは違う。
自分にとって意味のある関係を選択できるようになる
ということなのだと思う。
「みんなに見てほしい」から「分かる人に分かってもらえればいい」へ
これは、年齢を重ねることで感じる変化の一つかもしれない。
昔なら、
「こんなことをした」
と多くの人に知ってもらいたかった。
でも、だんだん、
「この人なら分かってくれる」
という相手が少数でも存在すれば、それで十分になってくる。
社会情動的選択性理論でも、人生の時間を有限なものとして捉えるようになるにつれ、広く多くの人と関係を広げるより、情緒的に意味のある関係を優先する傾向が示されている。
つまり、
人とのつながりを減らすというより、選択する。
この変化は、成熟について考えるうえで興味深い。
「一人でも大丈夫」と「誰も必要ない」は違う
ここも間違えたくない。
自己確認を他者に委ねない人は、
「人なんて必要ない」
と思っているわけではない。
むしろ、
「一人でも大丈夫。でも、あなたといるのは楽しい」
と言える。
一人で食事をする。
一人で旅行する。
一人で趣味を楽しむ。
一人で考える。
そのうえで、
「これ、一緒に見たら面白そう」
と思ったら誰かを誘う。
この順番なら、相手は「自分を維持するために必要な人」ではなく、
人生を一緒に味わいたい人
になる。
「私を見て」から「あなたも見たい」へ
ここが、今回の記事で一番書きたいところかもしれない。
「私を見て」
という欲求は、悪いものではない。
でも、それだけでは関係は一方向になる。
自分を見てほしい。
自分を知ってほしい。
自分に反応してほしい。
自分を認めてほしい。
そこから一歩進むと、
「あなたはどう?」
が出てくる。
あなたは何が好き?
あなたはどう感じた?
あなたはどうしたい?
あなたは今、どんな気持ち?
自分を見てもらうだけではなく、
相手を見る。
そこに、親密さが生まれる。
成熟とは「自分を小さくすること」ではない
ここは誤解されやすいところだと思う。
「他者からの承認を求めない」というと、
「自分のことを話さない」
「目立たない」
「欲求を抑える」
「我慢する」
という意味に捉えられることがある。
でも、それは違う。
自分のことを話していい。
褒めてもらっていい。
甘えてもいい。
「見て」と言ってもいい。
ただ、
相手が期待した反応を返さなかったときにも、自分を失わない。
そして、
相手にも「見ない自由」「応じない自由」「距離を取る自由」があることを理解できる。
そこまで含めて、成熟なのではないだろうか。
相手の反応まで自分の責任にしない
そして、これは人間関係においてものすごく大きい。
自分が何かを伝えた。
相手の反応が薄かった。
そこで、
「私の伝え方が悪かったのかな」
と何度も考えるのではなく、
「この人はそういう反応だった」
と受け止める。
逆に、自分が相手の期待通りに反応できなかったときも、
「相手が傷つかないように、もっと反応しなければ」
と過剰に背負わない。
相手の感情は、相手のもの。
自分の感情も、自分のもの。
その境界線があるから、人間関係に余白が生まれる。
「見てほしい」と言えることと、「見てもらえなくても大丈夫」は両立する
結局、成熟とは二択ではないのだと思う。
「誰にも認めてもらわなくていい」
でもない。
「誰かに認めてもらわないと自分が保てない」
でもない。
そのあいだに、
「見てもらえたら嬉しい。でも、見てもらえなくても私は私でいられる」
という場所がある。
そして、
「私はあなたに見てほしい。でも、あなたにも見ない自由がある」
と理解できる。
その余白があるからこそ、
「私を見て」
だけではなく、
「あなたを見たい」
が生まれる。
大人になるとは、自分を映す鏡を一つにしないこと
人は誰かに映してもらうことで、自分を知る。
それはこれからも変わらない。
でも、鏡を一枚しか持っていなければ、その鏡が曇ったとき、自分の姿まで分からなくなる。
だから、
自分自身の感覚。
これまでの経験。
大切な人からの言葉。
仕事や趣味で得た手応え。
一人で過ごした時間。
そうしたものをいくつも持っておく。
すると、誰かから反応が返ってこないときでも、
「まあ、私は私で分かっている」
と戻ってこられる。
私は、それも一つの意味での大人になることなのかもしれないと思う。
「私を見て」から「私は私を知っている」へ
大人になると「私を見て」が完全になくなるわけではない。
嬉しいことがあれば、誰かに見てほしい。
好きな人には、自分を知ってほしい。
それはこれからもきっと変わらない。
ただ、
「あなたが見てくれなければ、私は自分が分からない」
から、
「あなたに見てもらえたら嬉しい。でも、あなたが見ていなくても、私は自分を知っている」
へ。
そして、
「私を見て」
だけだったところから、
「私はあなたを見る」
へ。
その変化の中に、成熟というものの一部があるのかもしれない。
「なんで?」と聞かれるたびに、自分の選択を説明している気がする。
相手は悪気がない。
ただ、自分の基準をこちらにも当てはめてくる。
そんな人と一緒にいると、いつの間にか「私はどうしたい?」ではなく、「どう説明すれば納得してもらえる?」と考えるようになる。
なぜ、こんなに疲れるのだろう。
その理由を、少し考えてみた。
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「少し救われた」
「言えなかった気持ちを言葉にしてくれた」
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