移住の選択と思考シリーズ 第10回
お金のために頑張った結果、最後に欲しかったのは、もっと自由に考えられる時間だった。
そう気づいたのは、ごく最近のことだった。
私はずっと、「安定」というものを求めて頑張ってきた。
仕事を覚え、資格を取り、専門性を高め、新しい環境に飛び込んできた。
もちろん、お金は大事だ。
生活するためにも必要だし、選択肢を増やしてくれる。
でも、ある程度の安心を手に入れた時、ふと思った。
「私はこの先、何を増やしたいんだろう?」
お金?
物?
肩書き?
それとも、もっと別のものなのかもしれない。
何かを手に入れれば満たされると思っていた
世の中では、成功の形がある程度決まっているように見える。
大きな家。
高い収入。
安定した仕事。
誰もが羨むような生活。
もちろん、それらを否定したいわけではない。
それを目標に努力する人もいるし、それによって幸せを感じる人もいる。
でも、自分自身を振り返った時、私はそこに強く惹かれていなかった。
何億円もする家を持つことより、
「数ヶ月海外に行けること」
「興味を持ったことを学べること」
「人生の方向を変えられること」
の方が、ずっと魅力的に感じた。
私はなにかを所有したかったのではなく、選べる人生が欲しかったのだと思った。
私が欲しかったものは「所有」ではなく「選択肢」だった
以前の私は、働き続けることが人生の中心だった。
安定した仕事。
収入。
社会的な立場。
それらを得ることは大切だった。
でも同時に、どこかで違和感もあった。
時間を切り売りして、疲れ切った先に何があるのだろう。
もちろん働くこと自体が悪いわけではなかった。
仕事から得られたものもたくさんあった。
でも私の場合、人生で大切にしたいものは、
「どれだけ所有できるか」
ではなく、
「どれだけ可能性を広げられるか」
だった。
だから今は、
小さな家でもいい。
必要以上に広い空間はいらない。
その代わり、
数ヶ月海外に行く。
新しいことを学ぶ。
興味が出たら方向転換する。
そんな余白を残していたいと今は思う。
なぜ私は学ぶことが好きなのか
振り返ると、私は昔から何かを学ぶことが好きだったのかもしれない。
学校に入る前から、
絵の具で絵を描く。
字を書く。
習字をする。
ピアノを弾く。
泳げなかった水泳も習った。
母がいろいろな習い事を経験させてくれたことも大きかったと思う。
でも、続けてきた理由は単純だった。
知らないことができるようになることが、とても楽しかった。
大人になってからも、それはあまり変わらなかったみたいだ。
英語を学び直し、TOEICのスコアを取った。
スペイン語を学び、海外へ行った。
新しい職場に転職すれば、セミナーや学会に参加して、その環境で必要な知識を吸収した。
ブログもそうだった。
文章を書くことだけではなく、
どうしたら伝わるのか。
どうしたら読んでもらえるのか。
試行錯誤しながら運営すること自体が面白かった。
そして今度は、住宅設計を学ぼうとしている。
もともと私は、何かを作り上げることが好きだった。
自分の頭の中にあったものが形になる瞬間に、不思議な面白さを感じる。
今回の引っ越しでは、水回りや設備、住まいの構造について知らないことばかりだった。
だからこそ思った。
「もっと家のことを知りたい」
「人が暮らす空間は、どうやって作られているのだろう」
と。
私にとって学ぶことは、努力というより、世界が広がる感覚に近い。
何かを知るたびに、今まで見えていなかった景色が見えるようになる。
だから私は、次から次へと新しいことに興味を持ってしまうのかもしれない。
金髪にした日の意味
2026年4月2日。
会社の休みを利用して、私は金髪にした。
周りから見れば、
「突然どうしたの?」
と思われたかもしれない。
でも私にとっては、単なるイメージチェンジではなかった。
長い間、私は周囲の期待や「こうあるべき」という枠の中で生きてきた。
社会人らしく。
専門職らしく。
ちゃんとしている人らしく。
もちろん、それも人生には必要だった。
でもあの日の私は、
「自分で決めてもいいんだ」
という感覚を取り戻したかったのかもしれない。
金髪は、私にとって自由の象徴だった。
でも今は、もう金髪にそこまで魅力を感じない。
なぜなら、外見で自由を証明する必要がなくなったから。
今の私は、
新しい土地で暮らし始める。
小さな自分だけの拠点で、
以前から興味があった分野を学び直す。
知らない場所へ行き、新しい価値観に触れる。
そんな生活そのものが、私にとって自由だから。
誤解してほしくないのは、私が最初から一人で生きる人生を望んでいたわけではないということだ。
私も家族が欲しかった。
一緒にご飯を食べたり、旅行に行ったり、何気ない日常を共有できる誰かがいたらと思ったことは何度もある。そのためならある程度、場所に縛られて生きることだって幸せだと思ったこともある。
だから今の暮らしが、昔思い描いていた未来そのものというわけではない。
それでも私は、自分に与えられた人生の中で何を大切にして生きるのかを考え続けてきた。
そして今は、所有することよりも、学び続けることや可能性を閉じないことに豊かさを感じている。
これから
私は、大きなものを持つ人生ではなく、
可能性を広げ続けられる人生を選ぶんじゃないかと感じている。
安心できる暮らし。
健康な身体。
必要以上に追い求めなくても満足できる感覚。
そして、
「まだ知らないことを知りたい」
と思える気持ち。
それがある限り、人生は何度でも方向転換できる。
45歳になって、ようやく分かった。
今与えられている条件の中で、私が欲しかったのは、多くの所有物ではなかったのかもしれない。
もっと自由に考えて、
もっと自由に動いて、
自分の人生を自分で選べる余白だったんだと思う。
大きな家がなくてもいい。
人生は、持っているものの大きさではなく、
これから何を見に行けるかで決まるのかもしれない。
久しぶりに昔の友人に会った。
懐かしい話をするつもりだったのに、そこで見えてきたのは友人の変化ではなく、自分自身の変化だった。
人は、自分がどれだけ変わったかを、自分一人ではなかなか気づけない。
ときどき昔から知っている誰かが、鏡のように今の自分を映してくれる。
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環境を変えたいのか、それとも人生を変えたいのか。
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